2006年05月28日

年05月01日 ペルー沖縄移民100年祭ツアー その8 (フロリダ通信員)

2006年2月2日



ランチ前に無事にリマに戻りました。
なぜか家に帰って来たような気がしてホッとした。
この日の午後はランチに行ったり日系人が経営するギフトシヨップに買い物に行っりして半日過ごした。

もちろん私の高山病も不思議なぐらい消えていて(当たり前ですが)リマではまた元の大元気な私に戻りシッヨピングをエンジョイした。
なぜかまた夜中の飛行機で翌日の午後無事にフロリダに戻った。





2006年4月



今こうして何ヶ月か後に南米ペルーの旅の思い出を書いているとペルーでの事が昨日のように思い出せる。
しかし、ペルーの沖縄県人、日系人、そして地元のペルーの方たちは皆さん本当に親切で心が温かい人たちばっかりだった。


ペルー沖縄会館を訪ねた時、私たちを見ると何人ものペルー沖縄県人が親しく話しかけて来た。
本当になつかしそうに一生懸命日本語やウチナーグチで話しかけて来た。
会場内でニコニコと日本語や英語の通訳をしていた子供たち。
私に旧カイヤオ日本人小学校の住所を教えそれをスペイン語で書いてくれた元教師の女性。

マチュピチュ在住の沖縄県人のハズバンドとワイフ。
私がマチュピチュに行くと言ったら何か困った事が起きたら自分に電話をしなさいと住所と電話番号を下さった方。
秋子さんの親戚を探して下さったペルー沖縄婦人会の方たち。

また、ペルー日秘文化会館を訪ねた時、会館内でお仕事をしていた日系人女性の方に私のオジーが始めて入植した土地の場所が分からなかったのでそれを聞いたら彼女も分からないが調べておくとのこと。
そして後日その場所がどの辺にあるかとホテルに伝言を残して下さった方。

そして忘れてはいけないのはリマでの地元ペルー人のガイドのジョージさん。ジョージさんは仕事と言えよく私たちの面倒を見てくれました。
私たちも「ジョージ、ジョージ」を連発して色々な事をしてもらいました。

ジョージさんはとっても性格のいい好青年です。
将来は自分の旅行会社を持ちたい。
そして日本語も勉強したいと言っていた。
頑張り屋のジョージさんだからきっと彼の夢は実現することでしよう。


こうして書いてみるといろんな方たちにお世話になりました。感謝感激です。皆さん本当にありがとうございました。

またチャンスがあったらぜひ再び尋ねてみたい愛するペルー。
またクスコ市にも挑戦してみたい。
次回は私のドクターが言うように山の下の方から徐々に上がって行って身体を慣らしてからクスコ市内に入ろう。
そしてもう一度見たいあのマチュピチュ。


そうそう書き忘れるところでした。
二千一年の世界のウチナーチュ大会でお会いしたアルゼンチン沖縄県人会役員のTさんとペルー沖縄会館で再会。
その時「朝子さん二千七年はアルゼンチン沖縄移民百周年だよ。
ぜひ遊びに来てね」とおっしゃるではないか。

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私(左)と秋子さん(右)

たしかアルゼンチンにはイースター島があったはず、と私の頭にはまた凝りもせずにクレイジーなアイデイアが浮かんだ。(完) 
posted by くめじまたいむ通信員 at 12:49| Comment(13) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月01日

ペルー沖縄移民100年祭ツアー その7(フロリダ通信員)

2006年2月1日

寝たようで寝られなかったようで訳の分からない気分で朝の四時起き。
今朝はマチュピチュ行きの朝六時の列車に乗らなければいけない。

ホテルで朝食。もちろん食欲なし。
私のことを心配してくれたハワイからの参加者のEmikoさんがインスタントの味噌汁を一袋くれた。
旅慣れているEmikoさんは旅には常にインスタントの味噌汁を持参しているそうだ。
食べ物を見ただけで吐きたいのにでも味噌汁はどうにか少しだけは飲むことが出来た。
やはり私は日本人だな〜!私も次の旅からはインスタント味噌汁を持ち歩こう。

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(写真)クスコ市内にあるマチュピチュ行きの駅と列車


列車は時刻通り出発した。
ペルー関係のインターネッ上ではこの列車は揺れが激しいと書いてあったがそんなに揺れはなかったと思う。
でも吐き気と頭痛で揺れどころではなかったからひよっとしたら揺れていたかも知れない。

車窓からはペルーの美しい山々が見えた。
のどかな国だな〜。ホントにいい国だな〜。
もっと時間と予算があったら後一週間位休暇を延長して山々の麓で昼寝でもしたいな〜とガンガン痛む頭で思った。

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(写真)列車、バスを乗り継いでやっとマチュピチュ入り口到着


列車の旅約三時間半、そしてバスを約二十分乗り継いでやっとマチュピチュ到着。マチュピチュはクスコ市より千メートルは下がる(正確に言えば標高二千二百八十メートル)とのことで高山病が少しは軽くなるのではと期待した。
やはりマチュピチュ到着後は吐き気は治まった。
でもまだ相変わらず頭はガンガン痛む。でもよく頑張ってここまで来たものだと自分を褒めてやった。



http://www.peru-japan.org/Smachupicchu.html

ガイドさんがマチュピチュの入り口で皆の入場料を払っていた。
いよいよ「空中都市」あるいは「失われた都市」と言われているマチュピチュ入場。
細い道を歩いていたら突然視界は異様な山の麓にある都市がドッ!ドッ!と出現!「わーこれはいったいなんだ〜?」これが最初の私の感想。

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(写真)石と石の間には隙間がない!

もっと文学的にあるいは哲学的にあるいは宗教的に感想が書けたらいいのだが私の頭ではこれ以上の言葉が出ない。皆さんごめんなさい!

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(写真)これが高台から撮ったマチュピチュ

http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr009.html

http://www.jttk.zaq.ne.jp/baapu408/36machupichu.htm


マチュピチュの遺跡では約四時間過ごした。
私はまだ頭痛は治っていなかったがフラフラしながら歩き回った。
山の気候は変わりやすいと言うことで雨合羽も持参していたがラッキーなことに雨は一滴も降らなかった。
クスコ市は寒かったのに(厚いオーバーを着ていた)マチュピチュは暑かった。あんまりの太陽光線の強さにまいってしまい日陰を探したが日陰はついに見つけられなかった。

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(写真)マチュピチュ内

頭は相変わらずガンガン痛む。それでも頑張って最後までガイドさんの後ろから衝いて歩いた。
いよいよマチュピチュの出口が近づいて来た。
後ろを何回も振り向き「これでマチュピチュともお別れか。
たぶんもう二度とは来られないかも知れない」と思うとなんだか寂しいような勿体無いような、頭がガンガン痛くてももっと居たいようなそんな気がした。後ろ髪を引かれる思いでマチュピチュを後にした。

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(写真)ここが私の一番のお気に入りの場所
    なんとなく心が落ち着くような気がした・・・
 
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(写真)いよいよマチュピチュともお別れ
     皆で記念写真


駅に行くための帰りのバスに乗り込んだ時、地元のガイドさんにインターネットで「グッドバイボーイ」が要るということを調べたけどグッドバイボーイはまだ出現するのかと尋ねたらラッキーなことにまだ要るらしい。

しばらくバスはクネクネの山を下山。
ガイドさんが「ほらっ!グッドバイボーイがバイバイしているよ」と言っている。
見たら大人(父親かも)といっしょに小学校5年生ぐらいの男の子がペルーの民族衣装を着て一生懸命バイバイしている。
もちろんバスの中の私たちも皆でバイバイをした。またバスはクネクネ道を下山。そしたらさっきバイバイをしていた男の子がもうすでに先に来ていてバスを待っていた(地元の人しか知らない近道があるはず)バスは彼を乗せるために停車。

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(写真)バスにのりこんできたグッドバイボーイ

グッドバイボーイを乗せてバスは再び発車した。バスに乗り込んで来たグッドバイボーイはスペイン語で(と思うけど)「ナントカカントカ」と歌のようでもあるし、詩でもあるようなことを言っている。それがとってもかわいかった。その後皆からチップを貰っていた。もちろん私も彼にチップをあげた。私は子供には弱いのです。
この少年は駅の近くで降りた。


また帰りも行きと同じで約3時間半の列車の旅。
車内では列車勤務員の若い男女によるファションショーやペルーの民族舞踊などが披露された。

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(写真)帰りのクスコ行きの列車でのペルー民族舞踊を踊っていた
    ペルーの若者


私の頭は相変わらずガンガン痛む。
カメラをバッグから出すのをフユーしてファッションショーの写真を一枚も撮っていないのが後で悔まれた。



夕方にクスコ市内に戻って来た。やはりクスコは冷えるな〜。
寒い!そして頭痛は相変わらず。私の身体はぜんぜん高山に慣れる様子なし。
ギブアップ!この晩はクスコ市内のレストランでの夕食会。
そして生バンドもあるらしい。
やはり私はこれにも行けなかった。
もうただただ横になりたかった。
になったら気分が良くなるかと言うとそうではない。寝ていても気分はまったく同じ最悪さ。

ちなみにハワイからの参加者の八十二歳の淑子さんはぜんぜん平気だった。
クスコ、マチュピチュでもピンピンしていた。
クスコ行きの飛行機で隣り合わせた若い日本人の学生風な男性ともマチュピチュで偶然に再会したが、その時、高山病はどう?て聞いたらぜんぜん平気ですとの答えが返ってきた。

なんで〜私だけこんなに気分悪いわけ!でも私たちのツアーメンバーから二人の方がクスコまで来て高山病がひどくて結局はマチュピチュには行けなかった。
それを考えると私はクスコ市内観光は出来なかったがまあまあいいほうか、と思った。


ペルー沖縄移民100年際ツアー その8へ続く・・・
posted by くめじまたいむ通信員 at 03:56| Comment(2) | TrackBack(0) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月25日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その6(フロリダ通信員)

2006年1月31日

いよいよ待ちに待ったクスコ市そしてマチュピチュへの出発の日。
ペルー行きを決心した時インターネット上で調べたらクスコ市では高山病が心配とのこと。
http://www.forth.go.jp/tourist/useful/10_kousan.html

高山病はかかる人も居るしぜんぜん平気な人も居る。
私はなぜか絶対に高山病にかかると確信していた。
なぜか分からないが確実にかかるような気がしていた。
ペルー出発前にわざわざドクターにアポイントメントを作って高山病の薬をくれと頼んだがぜんぜん聞いてくれない。

私の住んでいる町で高山病についてドクターに問い合わせたのは私しかいなかったはず。
高山に急に(飛行機で)降りないで下から徐々に登っていけば大丈夫だ。
とそればっかり言っている。
ヤブ医者!下から徐々に登っていく時間ないちゅうの!
高山病の薬はあきらめた。どうにかなるだろう。

秋子さんの従兄弟さんに会った時、「マチュピチュに行くのだ。」と従兄弟の娘さんのロザリアに話したら彼女は丁度去年の十一月に休暇で行って来たばっかりだと言う。
その時飲んだ高山病の薬が残っているからそれを二人で飲みなさい。
絶対に大丈夫だと言う。
喜んでそれを貰うことにした。

出発の晩から飲んで出発の朝、また飲めばだいたいは大丈夫だと言う。
出発前の晩、秋子さんと二人で、さては飲んでいいものかどうかと迷っていた。
薬のパッケージはスペイイン語だし、何が書かれているのかさっぱり分からない。二人で薬を手に持ってどうしたものかと考えていたら突然秋子さんが「ダーワンガサチヌムサ」と言って飲んでしまった。
秋子さんだけ飲ますわけにもいかないから私も続いてそれを飲んだ。
飲んだ後しばらく心配だったが大丈夫だったらしい。
翌日は無事に二人とも起きたから。出発の朝また一定づつ飲んだ。


飛行機は案外居心地が良かった。
飛行機会社は地元のエアーラインズだったが飛行機も意外と新しいような気がした。


約一時間の飛行機の旅。無事にクスコ市空港に到着。
飛行機から降りたらゆっくりと歩くようにとガイドさんに言われていたので全員ゆっくりと歩いた。
たまには飛行機を降りた途端にバタッと倒れ人も居るそうだ。
気をつけよう。

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(写真)クスコ市内(ホテルに行く途中)


空港からホテルまでバスで二十分位。
まだまだ大丈夫。でもなんだかおかしいな〜。
胸がムカムカしてきて吐きたい。
なんだか頭もガンガン痛い。
来たなー(高山病が)と思った。
なんせ私の住んでいるフロリダ州は山がまったくない。
丘もあんまりない。なんとここは標高三千五百メートル。
空気が薄い。やはり高山病にかからないのがおかしい。
ホテルに着くなり酸素吸入のお世話になった。
でもあれもあんまり効き目はなかったような気がする。

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(写真)ホテルの窓から撮ったクスコ市内


ホテルにはコカティーがいつでも飲めるように置かれていた。
コカティーは高山病にいいらしい。何杯も飲んだ。
でもあれもあんまり効き目はなかったような気がするなあ。
コカティーの飲みすぎ(と私は今でもそう思っているけど)で下痢をしてしまった。


割り当てられた各部屋に荷物を置きすぐにロビーに集合。
クスコ市内観光だ。
私は最高に頭が痛くてムカムカしていたが(ついには吐いたりもした)、一応大金を払ってきたペルー観光。
クスコ市内観光を見逃すまいとフラフラしてロビーまで降りたがやはりだめ。同室の秋子さんに明日のマチュピチュ観光のために用心して部屋で休んで居ると断ってまた部屋に引き返した。

この後からが地獄だった。
(ちょっとオーバーですが)その日は一日中食事は一切出来なかった。食べたくなかった。食欲がぜんぜんなかった。
リマのホテルで朝食を食べたのが最後の食事だったかな〜と思ったりしたがなんせぜんぜん食欲なし。
頭は誰かが私の頭の中に入って金槌で脳みそをガンガン叩いているような痛さ。アスピリン(頭痛薬)を飲んでもぜんぜんきかない。
私はただひたすらベッドの中でウンウン唸っていた。

秋子さんが市内観光からの帰りに、私のことを心配してテイキアウトで食事を持ってきてくれた。
だが食べ物を見ただけで吐きたい。
秋子さんには悪いと思ったが食事はできなかった。
習慣とは恐ろしいものであんなに苦しんでも寝る前にシャワーを浴びたい。
どうにか頑張ってシャワーに入ってまたベッドに潜った。
秋子さんも頭はガンガン痛いと言っていた。

http://www.peru-japan.org/Scusco.html

http://www.jttk.zaq.ne.jp/baapu408/02cuzco.htm

ペルー沖縄移民100年際ツアー その7へ続く・・・
posted by くめじまたいむ通信員 at 03:17| Comment(2) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月16日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その4.5 (フロリダ通信員)

2006年1月29日


今日はペルー沖縄移民100年祭の最終日。
朝から沖縄会館入り。今日も会場内は大勢の人たちで賑わっていた。
サッカーフイードルではステージが立てられていた。
私たちはサッカーフイールドの後ろ側に待機してパレードの開始を待っていた。
私たちフロリダ沖縄県人会はたったの2名しか参加していないのでツアーの仲間たちのハワイの方たちとパレードには参加することにした。

私たちの後ろには男性2人が並んでいた。
メキシコからの参加らしい。
「僕ら2人では寂しいから僕たちと一緒に行進して」と誘われたけどハワイの方たちからはパレード用のレイ(花輪)もいただいているしどうしょうかな〜と返事に迷ったけど彼らもその後何も言わなかったのでシランフリグア〜していた。

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外国からのお客さん(私たちのことです)からパレードはスタート。
ミュージックに合わせてパレード開始。
中央あたりの席には稲峰知事さんのお顔もありました。

私たち外国人はパレードはすぐに終わったので与えられた席に座り各市町村会のパレードそして子供たちの色々なパフォーマンスをエンジイしました。このサイトで詳しく紹介されています。
→ クリック


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写真 子供たちのパフォーマンス


夜になりステージ上ではめずらしいペルーの民族舞踊。
色んなカラフルナ衣装を着て男女で踊っていた。
見たこともない踊りで珍しかった。
ペルー民族舞踊を踊っていたのも日系人。
沖縄系の若い男女。

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南米は琉球芸能がとっても盛んで琉球舞踊や三線を習っている若い方たちが多いと聞いた。
でもこうして若い世代がペルーの伝統民族舞踊も大事に受け継いでいるのには感心させられた。
これは見習うべきだとつくづく思った。



お腹が空いてきたしそれに少し肌寒くなってきたのでカゼを引いたら一大事だと思い会館内のパーテイー会場へと向かった。
ステージでは沖縄から来たグループ「コミニケーション アートプロジェクト」そして「アルバート城間&ダイアマンテス」の演奏で会場内はエキサイトしていた。

100年祭のフイナーレは花火を空高く打ち上げて無事終了。
ペルー県人会の皆さんご苦労様でした。
最高にエンジョイしました。
ペルーはとってもいい国だと実感しました。
ペルーバンザーイ!!!そして沖縄バンザーイ!!!
posted by くめじまたいむ通信員 at 03:22| Comment(2) | TrackBack(0) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月11日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その5(フロリダ通信員)

2006年1月30日

今日はこのツアーでは唯一自由行動のある日(午前中だけ)。
明日はいよいよクスコ市、そしてあこがれのマチュピチュへと出発。
そのための休息の日。

でも今日は私にとっては大切な日です。
前々からガイドのジョージさんにカイヤオ市そしてカイヤオ港に連れて行ってくれるように頼んでいた。
今日はジョージさんは希望者を募って人数が多ければミニツアーを組むとの事。
運良く10人以上の希望者が出たのでバスで行くことができた。



リマ市から20分ぐらいの距離。
リマエアーポートもこのカイヤオ市内にあるとのこと。
いよいよ私の両親が戦前勤めていた旧カイヤオ日本人小学校に到着。
学校の住所は県人会会館内で調べていたのでバスのドライバーに住所を渡したら問題なくスムーズに学校に到着。

 
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写真 カイヤオ市内で果物を売っていた屋台(?)

皆はバスの中で待っていた。
私とジョージさんが学校内に入った。
学校は大きな鉄の扉があった。
なんでもこの辺は治安が悪いということで門も頑丈にできていた。

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写真 旧カイヤオ日本人小学校
   現在はホセ ガルベス校

私とジョージさんが入ってきたので事務のおじさん(日系人)が日本語でしきりに事務所に入るように勧めている。
遠慮していたら事務所から校長先生そしてたまたま来ていた日系人協会の方が出てきて事務所に入るように勧めた。
私とジョージさんは事務所に入り突然の訪問を誤った。
日系人の方がペルー2世の方で日本語が話せたのでラッキーだった。
私はその方に訪問の理由を告げた。

この日系人協会の方の説明ではこの事務所のある建物だけが戦前の建物とのこと。
そういえばなかなか古そう。
ここは私の両親たちが使っていた職員室だったのかな〜とか想像したりした。
校長先生はペルー人の方で現在は生徒の60%はペルー人とのこと。
学校名も「カイヤオ日本人小学校」から「ホセ ガルペス校」と変わっていた。

私は心の中で「父ちゃん、母ちゃん来たよ〜」と両親に話しかけていた。
ここで私の母のペルー生活時代の手記を一部紹介したい。



-----(サト手記)--------------------------------------

 私が南米ペルーのカイヤオ日本人小学校に赴任したのは、昭和十二年一月のことでした。
その学校の生徒数は三百人で日本人教師が七名、ペルー人教師三人でした。
児童たちは、殆どスペイン語で話し日本人教師にだけ日本語で話していました。

 ペルー人の教師も躾には厳しく遅刻をすると、一時間も廊下に立たせておきました。
四年生の頃からノートを丁寧にペン字で整理させて毎週提出させておりました。

 学校行事の運動会や学芸会等は、年に一度の祝日で盛大なものでした。
ペルー人の組織するバンド隊を雇って、一週間位一緒に遊戯やダンスの手合わせをして本番に臨みました。

当時は児童の全家族が参加しての大運動会です。
とても大盛況でした。
学芸会でもピアノ独奏の児童は、学校にもピアノはあるのに、わざわざ自宅からピアノを運んで二階の講堂へ上げての演奏振りです。
子供の教育のことなら何にも惜しまないと言った父兄の熱意には驚かされました。北は北海道から南は沖縄までの日本中の二世たちが集まっている中で、トップクラスの子は沖縄人の子供たちでした。
五年生の頃からは、日本へ帰して、日本教育を受けさせることが一世の夢であり、誇りでもありました。

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こうして私がカイヤオ日本人小学校を訪問するとは夢にも思わなかった。
ここが両親が勤めていた学校かとまた眼が潤んできた。
泣いたらだめだと自分に言い聞かせながら校長先生や日系人協会の方、そして事務員のおじさんへ別れを告げた。

私がバスに乗り込んだらバスの中で待っていた皆が拍手で迎えてくれた。「良かったね」と皆口々に言ってくれた。
またここで眼が潤んできた。
負けず嫌いの私は泣くものかと必死で耐えながら皆にサンキュー、ーサンキューと言った。



次の訪問先はカイヤオ港だ。
学校からはさほど遠くはなかった。
ガイドのジョージさんがしきりに十分用心して。
そして個人行動は絶対にしないように。
常にグループで歩くようにとしつこく言っている。(治安が悪いらしい)
バスの中の皆は緊張気味。
バスが港に到着。

写真 カイヤオ港近くで記念写真

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皆がバスから降りるのを待ってジョージさんを先頭に歩き出した。
そしたらハワイから参加している八十二歳の淑子さんが突然走り出した。
彼女は真っ直ぐ海を目指して走っているではないか。
皆は口々に「淑子さん!待ってよ〜!待っててば!(それでも突進している彼女)」私が走ってやっと彼女を掴まえた。

「ジョージさんが危ないって言っていたでしよう!」と私は少しだけきつく言った。
何で走ったのかと聞いたら灯台が見えたら急に懐かしくなり走ってしまった。

淑子さんはペルー生まれ。
幼い頃よくこのカイヤオ港に海を見に家族と来たそうだ。
懐かしいとじーと遠い海を見ていた。
きっと彼女の頭の中は当時のペルーの思い出でいっぱいだったかも知れない。ちょっときつく叱ったのが悔やまれた。
ごめんなさい!淑子さん!許して!

ここでまた私の母が始めてカイヤオ港に到着した様子を紹介したい。
この部分が私の母の手記の始まりです。


---------(サト手記)---------------------------------

昭和十一年四月、三カ年間の沖縄での教員生活を終えて、ペルー国日本人会の招待を受けて沖縄を出発する事になった。

 那覇港に見送りに来てくださった方々は、女子師範五年生の時の主任松田先生と彼(私の父。朝子記)の従兄弟の方々と私の友人五、六人で私の家族はひとりも見送りに来てくれなかった。

 父母の猛反対を押し切って、十年間の暇を貰って出発する事になった。帰国して父母に孝行する事を心に誓って沖縄を後にした。

 夢に見る彼の住む外国。これから自分たちのやるべきことなどを胸一杯秘めて船は静かに神戸へと向かった。

 神戸で日本商船楽洋丸に乗り換えて出発したのは、五月の中旬頃であったと記憶している。船客はほとんど日本人と中国人だった。日本人と言っても八割ぐらいは沖縄県人であった。中国人は朝から夜半までガチャガチャと音を立てて麻雀で遊んでいた。沖縄県人の中には、青年、花嫁、再渡航者等で賑わった。

 私はペルー二世で沖縄で勉学を終えて帰る途中だと言ったら、誰も疑う者はいなかった。乗客は独身者が多く、外国での計画を語り合ったり、スポーツの話をしたりして退屈せずに毎日が過ぎて行った。私は船中で三着のセーターを編んで彼へのお土産にした。

 四十七日間の長い月日の中には、気の毒な花嫁さんもいた。折角パナマから写真結婚で船に乗り込んだが、途中で船酔いが酷船中の病院に入院した所、看護員と一緒になって、とうとうパナマで上陸できずに、日本へ帰された気の毒な花嫁さんも居た。

 私たちペルー上陸の乗客は、皆何事も起こらずに無事に上陸する事が出来た。その陰には、再渡航の叔母さんが、娘さんたちに悪い虫が付かないように絶えず気を配って下さったためだと思った。四十七日間の船中生活に終止符を打ってカイヤオ港に上陸する事になった。

 波止場には彼を始め、彼の両親、弟妹が迎えてくれた。特に元気者の彼の弟(この父の弟は戦前沖縄へ帰りその後、十九歳で男子師範から戦争に駆り出されて終戦間際の六月南部で戦死。朝子記)が上手な日本語で、色々と世話をしてくれた。彼も三年ぶりの再会であったが余り変わりはなかった。税関もスムーズに終えて、上陸許可がおりた。

 上陸して町を歩くと、世界各国の人種が見られた。肌のきれいなスペイン人。がっしりして健康的なドイツ人。働き者のイタリア人。食べることに忠実で、財力のある中国人。日曜日もなく働き続けている日本人。ワンマンなアメリカ人等。いろいろな人々が集まっていた。

 日本人の八割は、雑貨商を経営している。朝は四時から市場に買出しに行って、晩は十一時ごろまで働いていた。沖縄で考えていた濡れ手に栗式のような金儲けではなかった。

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私は今、私の家族が入港出港したカイヤオ港に立っている。
九十一年前に初めて私のオジーが入港したカイヤオ港。
きっとオジーはこのペルーで成功し錦を飾って沖縄に帰ろうと強く誓ったに違いない。
でもペルーでは成功できずにカイヤオ港から日本に向けて出た時のオジーはどんな気持ちだったんだろうか?と私の頭の中はオジー、オバーそして叔父、叔母、両親のことでいっぱいになった。
posted by くめじまたいむ通信員 at 02:04| Comment(2) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月05日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その4(フロリダ通信員)

2006年1月28日

今日は朝食後はすぐに沖縄会館へと出発。
会館内は人と車でごった返していた。
多くの沖縄県人がリマ市内だけではなくあっちこっちの地方から集まっていた。
会場内ではすでに色んな行事が始められていた。


沖縄からペルーへ移民して来てペルーで亡くなった方たちの法事が会館内で行われていた。
私と秋子さんも列に並んで順番を待ってお焼香をした。
「皆様本当にご苦労様でした。」と合掌した。
この日は約半日県人会会館で過ごす。



サッカーフイードル近辺では売店が各郷友会(沖縄の市町村)主催でオープンされているということで行ってみたが翌日29日が本番らしく準備中のお店が多かった。
サーターアンダーギーとか売っていないかと期待したが残念。

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写真 ペルー沖縄会館内で配られたランチ(久しぶりのウチナー料理のお弁当)美味しかった!そして飲み物はペルーでは有名な(インカコーラ)昔、60年代頃沖縄で売っていた(ベストソーダ)の味がした(ミスターコーラ)の味だと言う人も居た。

 

私とフロリダから来た宮城島出身の秋子さん(62歳)は今回のペルーの旅はある一つの使命があった。それは彼女の従兄弟たちとその家族を探す事だ。
秋子さんのお母さん(1998年94歳で他界)の妹が戦前写真結婚でペルーに渡っていた。
秋子さんのお母さんが元気だった頃は妹と文通をしていたがお母さんが亡くなってからはそれが途絶えてしまったのだ。
住所も分からない。

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写真 ペルー沖縄会館内でペルー婦人会の会員の方たちに従兄弟家族の消息を尋ねている秋子さん


秋子さんは会館の100年祭会場内では何人もの人を掴まえて(本当に手を掴まえて)従兄弟の名前を言って知らないかと聞き回っていた。秋子さんはウチナーグチが達者なのでお年寄りにはウチナーグチで若い世代には日本語で聞いていた。
親切なおばさんが(ペルー2世の方)親が宮城島という2世の50代のペルー婦人会の方を連れてきた。
この女性は日本語は相当にうまく話していた。
なんとこの女性が秋子さんの従兄弟そして家族をよく知っているというのではないか!
秋子さんはこの女性にホテルの電話番号とルームナーンバーを渡した。

この日の夜は各市町村歓迎会。残念ながら久米島郷友会らしきものはなかった。
そして久米島出身の方にも会わなかった。
久米島出身の方はペルーには居ないのかな〜と一瞬思ったりした。
私の親戚(オジーの弟も戦前ペルーに渡ったがオジーたちと一緒に沖縄に帰らないでペルーに残った)はペルーからアルゼンチンに移ったらしい。
ペルーで久米島の方たちに会えるのではないかと期待していたが誰も会えずに本当に残念だった。



さて、場面はホテル。
秋子さんの従兄弟の娘さんからの電話が来た。
秋子さんは相当に興奮していた。
一度も会ったことのない従兄弟たちにもうすぐ会えるのだから。
従兄弟のMasako(漢字不明)さんの娘さんが夜の7時にホテルに迎えに来るそうだ。

私と秋子さんは少しおしゃれをしてロビーで待っていたら小柄なペルー人顔の彫りの深いかわいい若い方が現れた。
お互いにハッグをして自己紹介をした。
秋子さんは興奮して彼女に色々と家族のことを聞いていた。
運がいいことに従兄弟のMasakoさんの娘さんのロザリアさんは英語がぺらぺら。
彼女は博士号を持っている秀才。
そう言われててみれば彼女はディキヤー顔しているな〜。

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写真 ホテルに迎えに来てくれたロザリアさん


ロザリアさんの自家用車で彼女の妹のアパートへ。
リマ市内は皆運転が乱暴とのことで(車がどこからでも飛び出してくる)特に数少ない女性ドライバーは男性ドライバーが意地悪をするとのこと。
((注)これは私が言っているのではありません。ロザリアさんが言っているのです。)


ロザリアさんの妹さんのアパートでは家族が待機していて秋子さんと私を大歓迎してくれた。
秋子さんはあんまりにも感激して涙ポロポロ。
つい私まで眼が潤んできた。涙には弱いんだよね〜。
でもなかなかの感動、感激の一場面でした。
きっと秋子さんのお母さんそしてお母さんの妹さんは天国で秋子さんに感謝していることでしよう。

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写真 秋子さんと従兄弟さんたちそしてその家族

Masakoさんの弟さんのYukinoriさんも仕事が終わり秋子さんに会いに来てくれた。
これでペルー在住の秋子さんの従兄弟さんたち、家族全員に会ったことになる。
Masakoさんが大事に保管していた昔の懐かしい写真を見ながらユンタクは続いた。
時計を見たらもう午前12時になろうとしていた。
別れ惜しみながらロザリアさんの車でホテルに帰った。


フロリダに帰ってきてもロザリアさんとはメールや手紙で交際は続いている。ロザリアさんは仕事で世界各国に出張に行くとの事。
次回は必ず沖縄を訪ねてみたいと言っていた。

ペルー沖縄移民100年際ツアー その5へ続く・・・・
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2006年04月03日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その3(フロリダ通信員)

2006年1月27日

今日も半日はリマ市内観光。
そしてランチの後ペルー沖縄県人会会館を訪ねる予定だ。
リマ市からバスで30分か40分位はかかったかな?。

方角も北に向かっているのか南に向かっているのかさっぱり分からない。
県人会館がある町の名前も知らない。
ガイドのジョージさんに地名を聞けばよかったな〜と後で後悔した。


ペルー沖縄県人会会館はすばらしかった。
(建物が美的にすばらしいのではなく)県人会会館はいつ頃建てられたか関係者に聞くのを忘れたが、移民100年でよくこれだけの建物と敷地を購入したものだと感心した。

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写真 この広い敷地 これもペルー県人会所有です


敷地はサッカーの試合ができるぐらいの広さだった。
ただただ感心するばかり。
私も県人会活動をしているが県人会の会館を建てるなんて想像も出来ないしまたそれは夢見たいな話。

ペルー沖縄県人の皆さんには本当に脱帽です。
ご苦労様でした。そしてご苦労様です。

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写真  ペルー沖縄会館前にて ツアーの方たちと


この日は翌日から始まる移民100年祭の準備で県人会会員は忙しそうだった。
会館にはちょっとした食堂があった。
なんとウチナーそばを売っているのではないか。
あ〜食べたいな〜。
でも今さっきランチを食べたばっかり。
ランチはペルーの高級レストランだったがまあそれはそれなりに美味しかったがしかし、ウチナーそばが食べたかったよ〜。

食堂内ではたぶん3世か4世と思われる中学生たちがポスターの作成をしていた。
感心感心。たぶん親に言われて協力しているはず。
親に逆らわないで手伝っているのは素直でいいね〜。

会館内で働いている(ボランテイア)子供たちは皆ニコニコして日本語、英語、もちろん母国語のスペイン語と3カ国語を自由自在にぺらぺらと使っている。
ペルー沖縄県民は教育に熱心だということがこの子供たちを見てすぐに理解できた。
子供たちは皆頭が良さそう。とまた内心一人で思った。



サッカーフイードルではお隣さんの南米各国から来た皆さんがゲートボールの試合をしていた。
秋子さんといっしょに大会を覗いてみた。
どうやら試合は終わったらしく皆で記念写真を撮りあっていた。

なぜか今こうしてペルーに居るということが不思議な感じがした。
だってここに居るのは皆沖縄のどこにでも居るような(失礼!)ウチナージラをしたおじさん、おばさんたち(私もその一人ですが)そのおじさん、おばさんたちがスペイン語を話したり、ポルトガル語を話したりしているのだから不思議。

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写真 ペルー移民100年祭歓迎会場内
   沖縄そしてペルーの民族衣装で着飾った沖縄系のお嬢様たち
  (3世、4世 )



この夜はペルー沖縄県人会主催の歓迎会。
ホテルに帰って着替えてもいいしまたそのままのかっこうでもいい。
ただし半ズボンとぞうりはだめだとガイドさんに言われた。

今回の旅は歓迎会とかがいっぱい予定表に入っていたのでドレスとか靴とかいろいろ持参したが結局は面倒になって着替えずにパーテイーに出席。
夜の8時頃パーテイー会場のレストラン着。

アトランタ県人会の会長Kさんはホテルで着替えたらしくステキなドレスを着て来た。それを見て私も着替えればよかったかな〜と少しだけ後悔した。
それからえいえんと待たされてパーテイーが始まったのがなんと夜の10時30分!私のベッドタイムはとうに過ぎているのではないか。

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写真 ペルー民族ダンスを踊っている沖縄県人系の若いカップル
   ペルー沖縄移民100年祭パーテイー会場内にて




やっと食事が来て、御偉い方々の挨拶とかがあったりペルー現地の色鮮やかな衣装を着た若いかわいい女の子とハンサムな男の子の現地の踊りがあったりと楽しいパーテイーは夜遅くまで続いた。

ペルー沖縄移民100年際ツアー その4へ続く・・・・
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2006年04月02日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その2(フロリダ通信員)


2006年1月25日

 二ヶ月間の準備期間を終えいよいよ出発の日。私の夫が私と秋子さんをエアーポートまでドラップオフ。「じゃぁねーバイバイ(日本語です)」と夫には軽く別れのチュッ!「二人とも気をつけて。そしてエンジョイして来なさい」と夫。やっぱりアメリカーの夫を持って良かったさ〜。いつでもどこへ行くにも文句なしだもんね〜。(これは自慢?)

今回の旅は久々の興奮(?)なんせペルー南米の旅は初めて。いくらインターネット上で調べてもやはり行ってみない事にはぜんぜん想像がつかない。



アトランタでロスアンゼルス、ハワイからのツアーメンバーと待ち合わせ。私たちはフロリダからだからけっこう早く着いて3時間ぐらいユンタクをして皆を待っていた。まずハワイからの皆が到着。お互いに自己紹介をし合ってロスアンゼルスからのメンバーを待つ。しばらくしてロスアンゼルスからのメンバーもそろいさあいよいよペルーへの出発。アトランタからはなんと8時間ぐらいの近さ。それに時差はたったの1時間。まぁ〜ペルーてけっこう近いんじゃない。と一人で感心。なぜかペルー行きの飛行機はほとんど夜中にペルーに到着とのことでやはり私たちも夜中にペルー到着。案外楽な飛行機の旅。日本行きと比べられない楽さ。お手洗いも機中では一度も行かなかった。ラッキー!(飛行機のトイレはすごく苦手。なるべく入らないようにしている)

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写真 バスに乗っていた子供たち 無邪気でかわいいですね


ペルーの空港ではハプニングがあり結局は朝の3時にホテル着。ハワイから参加した老夫婦が空港内で行方不明になり現地の旅行会社のお兄さんが真っ青な顔をして探したが見つからず(私たちはエアーポート内で待っていた)ホテルに電話をしてもそこにも居ない。パニック状態の時、老夫婦が今タクシーから来たとホテルからの連絡が入って一件落着。翌日わかった事だが、タクシーの運転手が無理やり彼らの荷物をタクシーに入れ、彼らは荷物を取り返しきれなくてそのままそのタクシーに乗ったとの事。ホテルまで約20分ぐらいの距離を運転手は市内をグルグルあっちこっち回ってからホテルに降ろしたとの事。もちろんタクシー代はたくさん払わされていました。でも無事だったから良かったさあ〜。お金はいいさ〜しょうがない。(と皆の意見でした)



2006年1月26日


昨夜は遅かったので今朝はゆっくりと起きてホテル内での朝食。
バッフェ(バイキング)式の朝食。めずらしい食べ物、果物類がある。
でも用心して(お腹の)なるべく珍しいのは食べないようにした。

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写真 ポテト類のお料理が美味しかった!

お寿司もありました。でもいくらなんでも朝からお寿司は食べられない。
普通のアメリカ式(卵とベーコンとトースト、果物)の朝食を軽めに食べる。
ランチはペルー風のレストランとのことでそれに期待して朝食はあんまり食べないようにした。

でも秋子さんは相変わらずの食欲で彼女のお皿は大盛り。
しかし、彼女はいつでもでこでもよく食う。
じゃなくて良くお召し上がります。
それが彼女の健康の秘訣だはずね〜。


さて、話は違うがインターネットの情報でアメリカ札はどこでも使用できるとの事を知っていたのでペルーのお金はあんまり両替しないことにした。
ホテルでもボーイさんたちにも1ドルのチップ(一人当たり)で十分のような気がした。
1ドル紙幣を50ドル持っていたのがよかった。それがすごく役立った。

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写真 リマ市内


ペルーの1月の気候は最高に良かった。
アメリカは冬だが、ペルーは夏。
湿気がぜんぜんなくてカラッとした天気。
あんまり暑さは感じなかった。夕方はちょっと肌寒いぐらい。

リマ市内は古い建物の町並みと新しいビルデングがミックスされた町という感じ。市内は車も多いし商店街も多い。
どこでも都会は同じでリマ市内は那覇の町とさほど変わらない感じ。


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写真 リマ市内の住宅街


今日は朝からリマ市内観光。ホテルはSホテルで最高級ホテル。
ツアーの値段はちょっと高めな気がしたがホテルを見てなるほどと納得。

ペルー市内は遺跡の宝庫。なにげなく遺跡がすぐそこにあるから驚きだ。
また古い教会も美しい。
http://www.peru-japan.org/Slima.htmlこのサイトで詳しく説明されているからここでは説明は省くことにする。

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写真  リマ市近くの海岸(太平洋) サーフインをしていました

リマ市内には博物館も多い。
これじゃあ9日間のツアーでは足りないのではと思ったほど。
これも見たい、あれも見たい。
ここへも行きたい、あっちへも行きたい。
でもグループツアーだから現地ガイドのお姉さん、お兄さんに任せることが一番。

リマ市内での数多い博物館で時間をかけて見たのが「天野博物館」。
それこそ何千点?いや何万点かも知れない。
詳しいことはこのサイトを参考にしてください。http://www.geocities.jp/peruamano/jimukyoku.htm

陶器や織物が好きな人には絶対にお勧め博物館です。
この博物館のお土産シッヨップで天野氏著作の「我が囚われの記」を10ドル(アメリカドル)で購入。
私は現金は小さな袋に入れて首から下げてブラウスの中に隠していたので売店のお姉さんが「10ドルです(日本語で)」とお金を催促されてもお金が取り出されなくて(人前で袋を開けるわけにもいかなくて)もじもじしてどんなにしてお金を取り出そうかと思案中。

それを側で見ていたハワイ2世のリチャードさんが私がお金がないと思ったのか「ボクが買ってあげようか?(英語)」と言っている。
私は恥ずかしくなり彼に「実はお金が取り出せないのだ(英語)」とヤナワレーしながら言った。

天野氏の本は興味深く読んだ。
私の家族が戦前ペルーで囚われた同じ経験を(天野氏はパナマで囚われた)しているので一字も見逃すまいと読んだ。
私の母もペルーでの経験を手記として多少は残しているが、天野氏のこの本のおかげで色々と詳しいことが分かった。この本に出合えて本当に良かった。

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写真  恋人たちの公園(ミラフローレス地区内)
    かすかに見える海は太平洋

この日は日秘文化会館も訪ねた。
日本からペルーの移民の歴史が展示されていた。
ここもまた一生懸命に説明を聞いた。私のオジーが戦前契約移民でペルーに来ていたからだ。
オジーは1年契約だったがあんまり成功せず結局は約30年間ペルーで苦労した。
戦争勃発で結局は無一文で久米島に帰っている。

今、現在このペルーの地で多くの沖縄県人が成功しているのをオジーが見たらきっと感激していたかも知れないと内心思った。

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posted by くめじまたいむ通信員 at 00:29| Comment(2) | TrackBack(0) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月31日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その1(フロリダ通信員)

2005年10月上旬、ロスアンゼルスにある沖縄系旅行会社Uが「ペルー沖縄移民100年際ツアー」を募っているとの情報を得た。

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 写真 リマ市内の高層ビル 

さっそく問い合わせてみるとツアーは2006年1月25日から2月3日までの9日間の日程。
それにはクスコ市内、世界遺産マチュピチュ観光も含まれているとの事。

1月といえば私の職場は1年に1度の棚卸の時期。
猫の手も借りたいほどの大忙しさ。

私のボスがなんと言うか?

それに来年の10月には「世界のウチナーチュ大会」もあるし、もしペルーに行くとなると予算オーバーだな〜と一瞬思ったりしたが、ウジウジ考えているよりも行動が早いのが私のとりえ(?)。

さっそく県人会の皆に聞いてみた。

まず真っ先に「私、行ってもいいよ」と返事が返ってきたのが秋子さん(宮城島出身)。
他の人たちはやはりウチナーチュ大会に行きたいとのことでそれはミーもアンダーステンド。

 結局は秋子さんと私が行くことになった。
私はまずボスのトムからのオーケーの許可を取らなければいけない。

さてどのようにこの話をトムにもって行ったらいいか。
まあクヨクヨ考えるよりも体当たりだ。

「トム!(アメリカの職場ではボスも名前は呼び捨て)私はペルーへの旅行を計画している。

ところがその旅行の日程がちょうどインベントリー(棚卸)の時期である。でもこの旅行は私にとって、とってもデージ(突然ウチナーグチ)重要な旅である。
沖縄ペルー移民100年祭の行事が盛大にペルーのリマ市で行われる。
それに私は参加したい。

なぜこれほどまでにペルー行きを望んでいるかと言うと実は私の祖父、祖母、そして両親、私のきょうだいたち、叔父、叔母が戦前ペルーに移民で行っていた。

私の祖父はペルーで相当に苦労し、やっと生活が安定し始めた時、戦争のゴタゴタに巻き込まれて結局は一文無しで沖縄に引き上げてきた。

私は私の家族が苦労したペルーをこの眼でしかと見て来たい。私の家族が吸っていた同じ空気を胸いっぱい吸って来たい。」

話をじっと聞いていたトムは

「朝子行きなさい。ペルーを見てきなさい。インベントリーは心配しなくていい。」

と言うではないか。

バンザーイ!ヤッタ!トムにはサンキュー、サンキューを連発した。
ボスの許可が取れたのでペルー行きの準備を開始した。

 まず私がしたことはインターネット上でペルーについて徹底的に調べたこと。
便利な世の中になりました。インターネットには感謝です。


ペルー沖縄移民100年際ツアー その2へ続く・・・・
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2005年12月23日

アメリカのクリスマス(フロリダ通信員)

いよいよクリスマスですね。アメリカの行事で一番大きな行事はやはりクリスマスです。日本ではクリスマスはだいたいが子供たちにおもちゃ類をプレゼントしてクリスマスケーキを家族でいただく。そんな感じでしようか?今回もまたアメリカの一般家庭(私の家族の場合です)のクリスマスを紹介しましよう。今、現在は私の子供たちも成長していてクリスマスもなんとなく活気がなくなってしまいましたが、子供たちが幼かった頃のクリスマスを思い出して皆さんに紹介したいと思います。

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  ハロウイーンが終わったら(11月頃から)クリスマスの準備にかかります。まず子供たち(まだサンタを信じている年齢です)にサンタさんへ自分が何が欲しいか手紙を書かせます。子供たちはだいたい一人で10個から15個の品々のリストを作っています。その手紙は親がサンタさんに送るからとか言って子供から預かります。そして夫婦で秘密会議です。予算のこと、また流行の品物は早めにオーダーしたり。子供たちのリストの品々はほとんど揃えるようにします。子供たちが小さい頃はだいたいがおもちゃ類でしたのでそれほど予算はかかりませんでした。でも子供たちが成長してティンーエンジャーになると高価な品々が多くなるので欲しい物のリストは少なめになります。

 
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さて、感謝祭も終わった11月下旬頃から外、室内のクリスマスの飾り付けに取り掛かります。外は夫の仕事です。梯子で屋根に上がったりするのでこれはやはり男の仕事でしようか。日本ではイルミネーションと言っているようですが、私たちはクリスマスライトと言っています。屋根から軒下へとお気に入りのライトを飾り付けます。クリスマスライトは毎年流行があるようで変わっためずらしい色や形のクリスマスライトがたくさんあります。室内のデコレーションは私と娘の仕事です。家族全員(おじいちゃん、おばあちゃん、犬も含めて)の名前入りのストッキングを暖炉にぶら下げます。クリスマスツリーは家族全員で飾ります。私の家ではツリーは一時期は本物の木を使用していたのですが(2メートルぐらいの高さの木でだいたい20ドルぐらいで買えます)木が古くなると葉が落ちてお掃除が大変なので今はイミテーションの木です。イミテーションの木は2メートルぐらいの高さで50ドル〜100ドルぐらいのお値段です。もちろん正価では買いません。かしこい主婦はクリスマスの後のセールで買うのです。クリスマスのデコレーション類はクリスマス後のセールでほとんどが50%オフか75%オフになります。このチャンスに翌年のデコレーション類を買い揃えるのです。でもたまには買ったのを忘れて(なんせ1年も経っているので)また同じ物を買ったりあるいは家のどこに置いたかを忘れて探せないという失敗もあります。



 12月に入ったら益々忙しくなります。子供たちの学校でもクリスマスの行事が多くなりクリスマスソングのコーラス会や各クラスごとのパーテイー、また夫や私の職場でもクリスマスパーテイーやプレゼント交換、パットラック(それぞれ1品料理を持ち寄ってのランチ)などがあります。クリスマスプレゼントは子供たちだけではありません。家族全員そして友人や職場へのプレゼントも用意します。



 いよいよクリスマスイブです。日本ではこの日はパーテイーが多いようですが、アメリカではクリスマスパーテイーはほとんどがクリスマス前に終わっています。イブは家族で静かに過ごします。またクリスマスイブは家族で教会に行きます(私の家族は行きませんが)さあ夜の9時になりました。子供たちのベッドタイム(寝る時間)です。その前に子供たちはサンタさんが訪ねて来た時、きっとスナックが欲しいだろうとお皿に5,6枚のクッキーとグラスにミルクを入れて暖炉の前に置いてから寝ます。子供たちは明日がクリスマスということで興奮してなかなか寝ません。11時頃にやっと寝付いた様子。さあこれからが私と夫は忙しくなるのです。いかにもサンタさんがプレゼントを持ってきたかのようにプレゼントをクリスマスツリーの回りに置きます。音をたてないようにコソコソと行動します。子供たちが置いたクッキーもいかにもサンタさんが食べたように3個ぐらい食べて回りにクッキーのクズとかも散らかして(演出に苦労します)ミルクも飲みたくないのにがまんして飲んでグラスを空にして置きます。やれやれこれでどうにか終了。私と夫は12時頃床につきます。



 12月25日朝6時。夜遅く寝たはずの娘がやはり一番先に起きています。私たちのベッドルームに駆け込んで来て「ダァデイー、マーミー、見て、見て、サンタさんがいっぱいプレゼントを置いてったよ〜」(英語です)と興奮気味で報告に来ます。私たちも「エ〜ホント〜?」とか言いながらクリスマスツリーの回りに置かれたプレゼントを見て驚きの演技をします。(ヤレヤレ親も大変だね〜)家族で騒ぎながらでプレゼントをオープンします。軽い朝食の後は午後のクリスマスデイナー(夕食会)の準備にかかります。感謝祭は七面鳥を焼いたのでクリスマスはベイクハムと決めています。午後の5時頃夫の両親も加わってクリスマスデイナーです。クリスマスはやはり感謝祭と同じで家族が集まりワイワイガヤガヤおしゃべりをしながデイナーを頂きます。そうそう言い忘れましたが私の夫はクリスマスの日に子供たちが目を輝かせてプレゼントに飛びつく姿を見るのを唯一の生きがいにしているような男です。



 子供たちはいつ頃からサンタさんの存在を信じなくなるのか?息子は大人になってから私に言っていたのですが、小学校5年生頃サンタの正体が分かったそうです(ボクはだいぶ遅かったと笑っていましたが)どうしてそれが分かったかというと、私がクリスマスイブにいつものようにこっそりとプレゼントをツリーの回りに置いた後写真を撮ったらしい。(ぜんぜん記憶にない)息子はそのプリントした写真(しかもプレゼントといっしょに夫が写っていたらしい)を見てサンタの正体は親だと分かった!と言っていました。そのショックを誰にも言わずにじっと一人で耐えたとのこと。娘は違います。娘が小学校3年生ぐらいだったと思います。クリスマス2,3日前だったかな?家に入ってくるなり(プンプン怒っていました)「マーミー、知っているんだよ。自分は知っているんだからね。プンプン」「何を知っているの?」「知っているんだよ!」「だから何を知っているの?変な子だね〜」「サンタさんは本当は居ないんだってね。サンタさんはダァデイーだってね?」「誰がそんなこと言ったの?」「ジャサリンよ(隣の2歳上のヤナワラバーグアー)」「ジャサリンが何を言ったか知らないけどマーミーはサンタさんの存在を信じているよ。」それでも娘は不服そな顔をしていました。娘はこの日は一日中ずーと怒っていました。今考えるとこのサンタの正体を知った日から子供たちは大人に一歩一歩と近づいていくのでしようか。

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メリークリスマス!!!(フロリダより愛を込めて)
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2005年11月25日

アメリカの祝日日、感謝祭!(フロリダ通信員)

2005年11月24日(木曜日)

 今日はアメリカの祝日日です。感謝祭です。http://www.americaseikatsu.net/thanksgiving.html(このウエブサイトでよく説明されています)感謝祭は日本で言えばお正月かお盆みたいな感じでしようか。
家族団らんの祝日日です。
家族から離れて住んでいる人たちにとって感謝祭はクリスマスの次に大切な日です。
この日のために帰郷します。
そしてこの感謝祭からホールデーシーズンがスタートします。
町はクリスマス一色になります。
デパートとかモールではクリスマス買い物客でにぎわいます。

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2005年11月08日

「ナショナル ジオグラフィック」11月号に沖縄のオジー、オバーが掲載される(フロリダ通信員)

2005年11月5日(土曜日)

 今日はとってもいい天気です。摂氏26度。ここフロリダ西部の季節では11月が最高です。涼しいしそれに湿気がなくカラッとしています。いつもこんな気候だったら文句なし。でもハリケーンシーズンは毎年6月1日から11月30日までですので後1ヶ月はまだまだハリケーンシーズンということです。でも11月に入ったらハリケーンもめったいに来ないので今のところは安心です。

 私たちアメリカ在住のウチナーチュ仲間で今、話題になっているのがアメリカでは相当に有名な雑誌「ナショナル ジオグラフィック」11月号に沖縄のオジーちゃん、オバーちゃんが取材されています。雑誌のタイトルが「長生きする秘訣」となっています。この雑誌のウエブサイトではオジーちゃん、オバーちゃんへのインタビューなども聞けます(英語版)。http://www7.nationalgeographic.com/ngm/0511/index.html

http://longevity.ngm.com/daily_vid.html ここではビデオが見られます(英語版)。日本語版もあります。http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/

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2005年11月05日

アメリカ・フロリダ通信員モートン朝子プロフィール

???[???i?????????jモートン朝子

1951年久米島(旧具志川村)生まれ。
1970年代に国際結婚。家族は夫1人、子供2人(息子29歳、社会人、娘21歳、学生)犬1匹??
1989年からフロリダ州に住む。
趣味 旅行、読書、県人会活動、太極拳、PCです。

 30年間の国際結婚の体験は今、思えば笑い話、失敗談もいっぱいある。夫が軍人だったため引越しが多かった。3年おきに引越しばっかりだった。でも引越しは疲れたがいつも新しい土地に移り住む時はワクワクした。性格がこんなだから友達もすぐ出来たし寂しいとかホームシックとかにかかったことはなかった。今現在は子供たちも家から出ていて夫と2人暮らし。
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2005年10月31日

アメリカのハロウィーン(フロリダ通信員)

2005年10月30日/アメリカフロリダ州/モートン朝子


 今日10月30日は冬時間に時計の針を1時間後に戻す日なのです。アメリカに住んで長いのですがなぜかこの時間を1時間戻したり1時間早めたり(夏時間)するのには今だかつて慣れません。たったの1時間の差ですが頭と体が夏時間から冬時間に戻るまでには1週間ぐらいはかかります。



 明日(10月31日)はハロウィーンですね。私はアメリカの行事ではこのハロウイーンが一番好きです。私の子供たちが幼なかった頃は二人のコスチューム(仮装)は全部手作りにしました。女の子はだいたいピエロとかプリンセスとかエンゼルとかバタフライとかかわいいコスチューム。男の子はドラキュラとか狼男とか怖いやつ。けっこう人気があるのは忍者の衣装。コスチュームは手作りしたりあるいはどこのお店でもコスチュームは豊富に揃えています。大人もハロウィーンパーティーとかするようなので大人用のコスチュームも売っています。子供たちの学校そして各職場でもその日はそれぞれのコスチュームで出勤です。そして誰のコスチュームが一番上等かとコンテストなどやります。ちなみに私は今年は魔法使いのおばあさんの衣装で出勤です。

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