2006年1月30日
今日はこのツアーでは唯一自由行動のある日(午前中だけ)。
明日はいよいよクスコ市、そしてあこがれのマチュピチュへと出発。
そのための休息の日。
でも今日は私にとっては大切な日です。
前々からガイドのジョージさんにカイヤオ市そしてカイヤオ港に連れて行ってくれるように頼んでいた。
今日はジョージさんは希望者を募って人数が多ければミニツアーを組むとの事。
運良く10人以上の希望者が出たのでバスで行くことができた。
リマ市から20分ぐらいの距離。
リマエアーポートもこのカイヤオ市内にあるとのこと。
いよいよ私の両親が戦前勤めていた旧カイヤオ日本人小学校に到着。
学校の住所は県人会会館内で調べていたのでバスのドライバーに住所を渡したら問題なくスムーズに学校に到着。

写真 カイヤオ市内で果物を売っていた屋台(?)
皆はバスの中で待っていた。
私とジョージさんが学校内に入った。
学校は大きな鉄の扉があった。
なんでもこの辺は治安が悪いということで門も頑丈にできていた。

写真 旧カイヤオ日本人小学校
現在はホセ ガルベス校
私とジョージさんが入ってきたので事務のおじさん(日系人)が日本語でしきりに事務所に入るように勧めている。
遠慮していたら事務所から校長先生そしてたまたま来ていた日系人協会の方が出てきて事務所に入るように勧めた。
私とジョージさんは事務所に入り突然の訪問を誤った。
日系人の方がペルー2世の方で日本語が話せたのでラッキーだった。
私はその方に訪問の理由を告げた。
この日系人協会の方の説明ではこの事務所のある建物だけが戦前の建物とのこと。
そういえばなかなか古そう。
ここは私の両親たちが使っていた職員室だったのかな〜とか想像したりした。
校長先生はペルー人の方で現在は生徒の60%はペルー人とのこと。
学校名も「カイヤオ日本人小学校」から「ホセ ガルペス校」と変わっていた。
私は心の中で「父ちゃん、母ちゃん来たよ〜」と両親に話しかけていた。
ここで私の母のペルー生活時代の手記を一部紹介したい。
-----(サト手記)--------------------------------------
私が南米ペルーのカイヤオ日本人小学校に赴任したのは、昭和十二年一月のことでした。
その学校の生徒数は三百人で日本人教師が七名、ペルー人教師三人でした。
児童たちは、殆どスペイン語で話し日本人教師にだけ日本語で話していました。
ペルー人の教師も躾には厳しく遅刻をすると、一時間も廊下に立たせておきました。
四年生の頃からノートを丁寧にペン字で整理させて毎週提出させておりました。
学校行事の運動会や学芸会等は、年に一度の祝日で盛大なものでした。
ペルー人の組織するバンド隊を雇って、一週間位一緒に遊戯やダンスの手合わせをして本番に臨みました。
当時は児童の全家族が参加しての大運動会です。
とても大盛況でした。
学芸会でもピアノ独奏の児童は、学校にもピアノはあるのに、わざわざ自宅からピアノを運んで二階の講堂へ上げての演奏振りです。
子供の教育のことなら何にも惜しまないと言った父兄の熱意には驚かされました。北は北海道から南は沖縄までの日本中の二世たちが集まっている中で、トップクラスの子は沖縄人の子供たちでした。
五年生の頃からは、日本へ帰して、日本教育を受けさせることが一世の夢であり、誇りでもありました。
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こうして私がカイヤオ日本人小学校を訪問するとは夢にも思わなかった。
ここが両親が勤めていた学校かとまた眼が潤んできた。
泣いたらだめだと自分に言い聞かせながら校長先生や日系人協会の方、そして事務員のおじさんへ別れを告げた。
私がバスに乗り込んだらバスの中で待っていた皆が拍手で迎えてくれた。「良かったね」と皆口々に言ってくれた。
またここで眼が潤んできた。
負けず嫌いの私は泣くものかと必死で耐えながら皆にサンキュー、ーサンキューと言った。
次の訪問先はカイヤオ港だ。
学校からはさほど遠くはなかった。
ガイドのジョージさんがしきりに十分用心して。
そして個人行動は絶対にしないように。
常にグループで歩くようにとしつこく言っている。(治安が悪いらしい)
バスの中の皆は緊張気味。
バスが港に到着。
写真 カイヤオ港近くで記念写真

皆がバスから降りるのを待ってジョージさんを先頭に歩き出した。
そしたらハワイから参加している八十二歳の淑子さんが突然走り出した。
彼女は真っ直ぐ海を目指して走っているではないか。
皆は口々に「淑子さん!待ってよ〜!待っててば!(それでも突進している彼女)」私が走ってやっと彼女を掴まえた。
「ジョージさんが危ないって言っていたでしよう!」と私は少しだけきつく言った。
何で走ったのかと聞いたら灯台が見えたら急に懐かしくなり走ってしまった。
淑子さんはペルー生まれ。
幼い頃よくこのカイヤオ港に海を見に家族と来たそうだ。
懐かしいとじーと遠い海を見ていた。
きっと彼女の頭の中は当時のペルーの思い出でいっぱいだったかも知れない。ちょっときつく叱ったのが悔やまれた。
ごめんなさい!淑子さん!許して!
ここでまた私の母が始めてカイヤオ港に到着した様子を紹介したい。
この部分が私の母の手記の始まりです。
---------(サト手記)---------------------------------
昭和十一年四月、三カ年間の沖縄での教員生活を終えて、ペルー国日本人会の招待を受けて沖縄を出発する事になった。
那覇港に見送りに来てくださった方々は、女子師範五年生の時の主任松田先生と彼(私の父。朝子記)の従兄弟の方々と私の友人五、六人で私の家族はひとりも見送りに来てくれなかった。
父母の猛反対を押し切って、十年間の暇を貰って出発する事になった。帰国して父母に孝行する事を心に誓って沖縄を後にした。
夢に見る彼の住む外国。これから自分たちのやるべきことなどを胸一杯秘めて船は静かに神戸へと向かった。
神戸で日本商船楽洋丸に乗り換えて出発したのは、五月の中旬頃であったと記憶している。船客はほとんど日本人と中国人だった。日本人と言っても八割ぐらいは沖縄県人であった。中国人は朝から夜半までガチャガチャと音を立てて麻雀で遊んでいた。沖縄県人の中には、青年、花嫁、再渡航者等で賑わった。
私はペルー二世で沖縄で勉学を終えて帰る途中だと言ったら、誰も疑う者はいなかった。乗客は独身者が多く、外国での計画を語り合ったり、スポーツの話をしたりして退屈せずに毎日が過ぎて行った。私は船中で三着のセーターを編んで彼へのお土産にした。
四十七日間の長い月日の中には、気の毒な花嫁さんもいた。折角パナマから写真結婚で船に乗り込んだが、途中で船酔いが酷船中の病院に入院した所、看護員と一緒になって、とうとうパナマで上陸できずに、日本へ帰された気の毒な花嫁さんも居た。
私たちペルー上陸の乗客は、皆何事も起こらずに無事に上陸する事が出来た。その陰には、再渡航の叔母さんが、娘さんたちに悪い虫が付かないように絶えず気を配って下さったためだと思った。四十七日間の船中生活に終止符を打ってカイヤオ港に上陸する事になった。
波止場には彼を始め、彼の両親、弟妹が迎えてくれた。特に元気者の彼の弟(この父の弟は戦前沖縄へ帰りその後、十九歳で男子師範から戦争に駆り出されて終戦間際の六月南部で戦死。朝子記)が上手な日本語で、色々と世話をしてくれた。彼も三年ぶりの再会であったが余り変わりはなかった。税関もスムーズに終えて、上陸許可がおりた。
上陸して町を歩くと、世界各国の人種が見られた。肌のきれいなスペイン人。がっしりして健康的なドイツ人。働き者のイタリア人。食べることに忠実で、財力のある中国人。日曜日もなく働き続けている日本人。ワンマンなアメリカ人等。いろいろな人々が集まっていた。
日本人の八割は、雑貨商を経営している。朝は四時から市場に買出しに行って、晩は十一時ごろまで働いていた。沖縄で考えていた濡れ手に栗式のような金儲けではなかった。
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私は今、私の家族が入港出港したカイヤオ港に立っている。
九十一年前に初めて私のオジーが入港したカイヤオ港。
きっとオジーはこのペルーで成功し錦を飾って沖縄に帰ろうと強く誓ったに違いない。
でもペルーでは成功できずにカイヤオ港から日本に向けて出た時のオジーはどんな気持ちだったんだろうか?と私の頭の中はオジー、オバーそして叔父、叔母、両親のことでいっぱいになった。