2006年04月25日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その6(フロリダ通信員)

2006年1月31日

いよいよ待ちに待ったクスコ市そしてマチュピチュへの出発の日。
ペルー行きを決心した時インターネット上で調べたらクスコ市では高山病が心配とのこと。
http://www.forth.go.jp/tourist/useful/10_kousan.html

高山病はかかる人も居るしぜんぜん平気な人も居る。
私はなぜか絶対に高山病にかかると確信していた。
なぜか分からないが確実にかかるような気がしていた。
ペルー出発前にわざわざドクターにアポイントメントを作って高山病の薬をくれと頼んだがぜんぜん聞いてくれない。

私の住んでいる町で高山病についてドクターに問い合わせたのは私しかいなかったはず。
高山に急に(飛行機で)降りないで下から徐々に登っていけば大丈夫だ。
とそればっかり言っている。
ヤブ医者!下から徐々に登っていく時間ないちゅうの!
高山病の薬はあきらめた。どうにかなるだろう。

秋子さんの従兄弟さんに会った時、「マチュピチュに行くのだ。」と従兄弟の娘さんのロザリアに話したら彼女は丁度去年の十一月に休暇で行って来たばっかりだと言う。
その時飲んだ高山病の薬が残っているからそれを二人で飲みなさい。
絶対に大丈夫だと言う。
喜んでそれを貰うことにした。

出発の晩から飲んで出発の朝、また飲めばだいたいは大丈夫だと言う。
出発前の晩、秋子さんと二人で、さては飲んでいいものかどうかと迷っていた。
薬のパッケージはスペイイン語だし、何が書かれているのかさっぱり分からない。二人で薬を手に持ってどうしたものかと考えていたら突然秋子さんが「ダーワンガサチヌムサ」と言って飲んでしまった。
秋子さんだけ飲ますわけにもいかないから私も続いてそれを飲んだ。
飲んだ後しばらく心配だったが大丈夫だったらしい。
翌日は無事に二人とも起きたから。出発の朝また一定づつ飲んだ。


飛行機は案外居心地が良かった。
飛行機会社は地元のエアーラインズだったが飛行機も意外と新しいような気がした。


約一時間の飛行機の旅。無事にクスコ市空港に到着。
飛行機から降りたらゆっくりと歩くようにとガイドさんに言われていたので全員ゆっくりと歩いた。
たまには飛行機を降りた途端にバタッと倒れ人も居るそうだ。
気をつけよう。

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(写真)クスコ市内(ホテルに行く途中)


空港からホテルまでバスで二十分位。
まだまだ大丈夫。でもなんだかおかしいな〜。
胸がムカムカしてきて吐きたい。
なんだか頭もガンガン痛い。
来たなー(高山病が)と思った。
なんせ私の住んでいるフロリダ州は山がまったくない。
丘もあんまりない。なんとここは標高三千五百メートル。
空気が薄い。やはり高山病にかからないのがおかしい。
ホテルに着くなり酸素吸入のお世話になった。
でもあれもあんまり効き目はなかったような気がする。

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(写真)ホテルの窓から撮ったクスコ市内


ホテルにはコカティーがいつでも飲めるように置かれていた。
コカティーは高山病にいいらしい。何杯も飲んだ。
でもあれもあんまり効き目はなかったような気がするなあ。
コカティーの飲みすぎ(と私は今でもそう思っているけど)で下痢をしてしまった。


割り当てられた各部屋に荷物を置きすぐにロビーに集合。
クスコ市内観光だ。
私は最高に頭が痛くてムカムカしていたが(ついには吐いたりもした)、一応大金を払ってきたペルー観光。
クスコ市内観光を見逃すまいとフラフラしてロビーまで降りたがやはりだめ。同室の秋子さんに明日のマチュピチュ観光のために用心して部屋で休んで居ると断ってまた部屋に引き返した。

この後からが地獄だった。
(ちょっとオーバーですが)その日は一日中食事は一切出来なかった。食べたくなかった。食欲がぜんぜんなかった。
リマのホテルで朝食を食べたのが最後の食事だったかな〜と思ったりしたがなんせぜんぜん食欲なし。
頭は誰かが私の頭の中に入って金槌で脳みそをガンガン叩いているような痛さ。アスピリン(頭痛薬)を飲んでもぜんぜんきかない。
私はただひたすらベッドの中でウンウン唸っていた。

秋子さんが市内観光からの帰りに、私のことを心配してテイキアウトで食事を持ってきてくれた。
だが食べ物を見ただけで吐きたい。
秋子さんには悪いと思ったが食事はできなかった。
習慣とは恐ろしいものであんなに苦しんでも寝る前にシャワーを浴びたい。
どうにか頑張ってシャワーに入ってまたベッドに潜った。
秋子さんも頭はガンガン痛いと言っていた。

http://www.peru-japan.org/Scusco.html

http://www.jttk.zaq.ne.jp/baapu408/02cuzco.htm

ペルー沖縄移民100年際ツアー その7へ続く・・・
posted by くめじまたいむ通信員 at 03:17| Comment(2) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月18日

久米島の生んだ大スター(東京通信員)

5/20(土)は、久米島が生んだ大スター、前川朝文さんの東京公演があります。

久米島の方は、皆?ご存知だと思います。

私は、良く知りませんが、彼の経歴を簡単に紹介します。
芸能生活50周年。
技能保持者三冠達成!

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以下↓公演要項です。

*タイトル : 前川朝文:芸能生活50周年・東京公演
*主  催 : 前川朝文東京公演実行委員会
* 時 : 平成18年5月20日(土)
* 所 : 東京ヤクルトホール
*開 演 : 午後2時
*終 演 : 午後5時

東京久米島郷友会は、郷土が生んだ大スターの偉業を称え公演のお手伝いをします。
鑑賞後の、レポートをお楽しみに!
posted by くめじまたいむ通信員 at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京(日本)中村通信員 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月16日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その4.5 (フロリダ通信員)

2006年1月29日


今日はペルー沖縄移民100年祭の最終日。
朝から沖縄会館入り。今日も会場内は大勢の人たちで賑わっていた。
サッカーフイードルではステージが立てられていた。
私たちはサッカーフイールドの後ろ側に待機してパレードの開始を待っていた。
私たちフロリダ沖縄県人会はたったの2名しか参加していないのでツアーの仲間たちのハワイの方たちとパレードには参加することにした。

私たちの後ろには男性2人が並んでいた。
メキシコからの参加らしい。
「僕ら2人では寂しいから僕たちと一緒に行進して」と誘われたけどハワイの方たちからはパレード用のレイ(花輪)もいただいているしどうしょうかな〜と返事に迷ったけど彼らもその後何も言わなかったのでシランフリグア〜していた。

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外国からのお客さん(私たちのことです)からパレードはスタート。
ミュージックに合わせてパレード開始。
中央あたりの席には稲峰知事さんのお顔もありました。

私たち外国人はパレードはすぐに終わったので与えられた席に座り各市町村会のパレードそして子供たちの色々なパフォーマンスをエンジイしました。このサイトで詳しく紹介されています。
→ クリック


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写真 子供たちのパフォーマンス


夜になりステージ上ではめずらしいペルーの民族舞踊。
色んなカラフルナ衣装を着て男女で踊っていた。
見たこともない踊りで珍しかった。
ペルー民族舞踊を踊っていたのも日系人。
沖縄系の若い男女。

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南米は琉球芸能がとっても盛んで琉球舞踊や三線を習っている若い方たちが多いと聞いた。
でもこうして若い世代がペルーの伝統民族舞踊も大事に受け継いでいるのには感心させられた。
これは見習うべきだとつくづく思った。



お腹が空いてきたしそれに少し肌寒くなってきたのでカゼを引いたら一大事だと思い会館内のパーテイー会場へと向かった。
ステージでは沖縄から来たグループ「コミニケーション アートプロジェクト」そして「アルバート城間&ダイアマンテス」の演奏で会場内はエキサイトしていた。

100年祭のフイナーレは花火を空高く打ち上げて無事終了。
ペルー県人会の皆さんご苦労様でした。
最高にエンジョイしました。
ペルーはとってもいい国だと実感しました。
ペルーバンザーイ!!!そして沖縄バンザーイ!!!
posted by くめじまたいむ通信員 at 03:22| Comment(2) | TrackBack(0) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月12日

久米島出身の珠算の名人!!(東京通信員)

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久米島出身の珠算の名人をご紹介します。

小林先輩からのご紹介です。
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飯沼美恵子さん(旧姓 高林)との出会いは彼女が小学生になろうという春、私は大学生で珠算塾で助手をしていました。

そこにお下げ髪の目がクリクリした、まるでキューピーさんのような女の子が入塾してきたのです。
その後めきめきと頭角を現した彼女は競技大会にも出場し、優秀な成績を収めていきました。

“そろばんは子どもの頃の習い事”と思われる方もおられるでしょうが、奥が深いこの世界に美恵子さんは長く精進を続けました。

私が分教場に赴き、一時期離れたときもありましたが、縁あって再び一緒に珠算の道を歩んでいくこととなりました。

高校生になってからは全国大会の都代表選手に選ばれる活躍、大学1年生では最高峰の十段位を取得しました。


 しかし、美恵子さんの優れているのはそんな実績を超える人間性です。
努力家であることはもちろん、謙虚で明るく温和な人柄は周りにたいへんな好感を与えます。

就職し大阪に赴任してからもコンスタントに彼女らしい気配りを見せてくれ、感心させられたものです。

20年以上もの付き合いは生徒というより家族に近い感覚があります。
そんな美恵子さんも大阪時代の出会いにより昨秋ご結婚されました。
琵琶湖近くで暮らすお二人の末永い幸せを心から祈ってやみません。

 <小林英美>
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 写真利用 EXHUME
posted by くめじまたいむ通信員 at 01:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京(日本)中村通信員 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月11日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その5(フロリダ通信員)

2006年1月30日

今日はこのツアーでは唯一自由行動のある日(午前中だけ)。
明日はいよいよクスコ市、そしてあこがれのマチュピチュへと出発。
そのための休息の日。

でも今日は私にとっては大切な日です。
前々からガイドのジョージさんにカイヤオ市そしてカイヤオ港に連れて行ってくれるように頼んでいた。
今日はジョージさんは希望者を募って人数が多ければミニツアーを組むとの事。
運良く10人以上の希望者が出たのでバスで行くことができた。



リマ市から20分ぐらいの距離。
リマエアーポートもこのカイヤオ市内にあるとのこと。
いよいよ私の両親が戦前勤めていた旧カイヤオ日本人小学校に到着。
学校の住所は県人会会館内で調べていたのでバスのドライバーに住所を渡したら問題なくスムーズに学校に到着。

 
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写真 カイヤオ市内で果物を売っていた屋台(?)

皆はバスの中で待っていた。
私とジョージさんが学校内に入った。
学校は大きな鉄の扉があった。
なんでもこの辺は治安が悪いということで門も頑丈にできていた。

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写真 旧カイヤオ日本人小学校
   現在はホセ ガルベス校

私とジョージさんが入ってきたので事務のおじさん(日系人)が日本語でしきりに事務所に入るように勧めている。
遠慮していたら事務所から校長先生そしてたまたま来ていた日系人協会の方が出てきて事務所に入るように勧めた。
私とジョージさんは事務所に入り突然の訪問を誤った。
日系人の方がペルー2世の方で日本語が話せたのでラッキーだった。
私はその方に訪問の理由を告げた。

この日系人協会の方の説明ではこの事務所のある建物だけが戦前の建物とのこと。
そういえばなかなか古そう。
ここは私の両親たちが使っていた職員室だったのかな〜とか想像したりした。
校長先生はペルー人の方で現在は生徒の60%はペルー人とのこと。
学校名も「カイヤオ日本人小学校」から「ホセ ガルペス校」と変わっていた。

私は心の中で「父ちゃん、母ちゃん来たよ〜」と両親に話しかけていた。
ここで私の母のペルー生活時代の手記を一部紹介したい。



-----(サト手記)--------------------------------------

 私が南米ペルーのカイヤオ日本人小学校に赴任したのは、昭和十二年一月のことでした。
その学校の生徒数は三百人で日本人教師が七名、ペルー人教師三人でした。
児童たちは、殆どスペイン語で話し日本人教師にだけ日本語で話していました。

 ペルー人の教師も躾には厳しく遅刻をすると、一時間も廊下に立たせておきました。
四年生の頃からノートを丁寧にペン字で整理させて毎週提出させておりました。

 学校行事の運動会や学芸会等は、年に一度の祝日で盛大なものでした。
ペルー人の組織するバンド隊を雇って、一週間位一緒に遊戯やダンスの手合わせをして本番に臨みました。

当時は児童の全家族が参加しての大運動会です。
とても大盛況でした。
学芸会でもピアノ独奏の児童は、学校にもピアノはあるのに、わざわざ自宅からピアノを運んで二階の講堂へ上げての演奏振りです。
子供の教育のことなら何にも惜しまないと言った父兄の熱意には驚かされました。北は北海道から南は沖縄までの日本中の二世たちが集まっている中で、トップクラスの子は沖縄人の子供たちでした。
五年生の頃からは、日本へ帰して、日本教育を受けさせることが一世の夢であり、誇りでもありました。

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こうして私がカイヤオ日本人小学校を訪問するとは夢にも思わなかった。
ここが両親が勤めていた学校かとまた眼が潤んできた。
泣いたらだめだと自分に言い聞かせながら校長先生や日系人協会の方、そして事務員のおじさんへ別れを告げた。

私がバスに乗り込んだらバスの中で待っていた皆が拍手で迎えてくれた。「良かったね」と皆口々に言ってくれた。
またここで眼が潤んできた。
負けず嫌いの私は泣くものかと必死で耐えながら皆にサンキュー、ーサンキューと言った。



次の訪問先はカイヤオ港だ。
学校からはさほど遠くはなかった。
ガイドのジョージさんがしきりに十分用心して。
そして個人行動は絶対にしないように。
常にグループで歩くようにとしつこく言っている。(治安が悪いらしい)
バスの中の皆は緊張気味。
バスが港に到着。

写真 カイヤオ港近くで記念写真

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皆がバスから降りるのを待ってジョージさんを先頭に歩き出した。
そしたらハワイから参加している八十二歳の淑子さんが突然走り出した。
彼女は真っ直ぐ海を目指して走っているではないか。
皆は口々に「淑子さん!待ってよ〜!待っててば!(それでも突進している彼女)」私が走ってやっと彼女を掴まえた。

「ジョージさんが危ないって言っていたでしよう!」と私は少しだけきつく言った。
何で走ったのかと聞いたら灯台が見えたら急に懐かしくなり走ってしまった。

淑子さんはペルー生まれ。
幼い頃よくこのカイヤオ港に海を見に家族と来たそうだ。
懐かしいとじーと遠い海を見ていた。
きっと彼女の頭の中は当時のペルーの思い出でいっぱいだったかも知れない。ちょっときつく叱ったのが悔やまれた。
ごめんなさい!淑子さん!許して!

ここでまた私の母が始めてカイヤオ港に到着した様子を紹介したい。
この部分が私の母の手記の始まりです。


---------(サト手記)---------------------------------

昭和十一年四月、三カ年間の沖縄での教員生活を終えて、ペルー国日本人会の招待を受けて沖縄を出発する事になった。

 那覇港に見送りに来てくださった方々は、女子師範五年生の時の主任松田先生と彼(私の父。朝子記)の従兄弟の方々と私の友人五、六人で私の家族はひとりも見送りに来てくれなかった。

 父母の猛反対を押し切って、十年間の暇を貰って出発する事になった。帰国して父母に孝行する事を心に誓って沖縄を後にした。

 夢に見る彼の住む外国。これから自分たちのやるべきことなどを胸一杯秘めて船は静かに神戸へと向かった。

 神戸で日本商船楽洋丸に乗り換えて出発したのは、五月の中旬頃であったと記憶している。船客はほとんど日本人と中国人だった。日本人と言っても八割ぐらいは沖縄県人であった。中国人は朝から夜半までガチャガチャと音を立てて麻雀で遊んでいた。沖縄県人の中には、青年、花嫁、再渡航者等で賑わった。

 私はペルー二世で沖縄で勉学を終えて帰る途中だと言ったら、誰も疑う者はいなかった。乗客は独身者が多く、外国での計画を語り合ったり、スポーツの話をしたりして退屈せずに毎日が過ぎて行った。私は船中で三着のセーターを編んで彼へのお土産にした。

 四十七日間の長い月日の中には、気の毒な花嫁さんもいた。折角パナマから写真結婚で船に乗り込んだが、途中で船酔いが酷船中の病院に入院した所、看護員と一緒になって、とうとうパナマで上陸できずに、日本へ帰された気の毒な花嫁さんも居た。

 私たちペルー上陸の乗客は、皆何事も起こらずに無事に上陸する事が出来た。その陰には、再渡航の叔母さんが、娘さんたちに悪い虫が付かないように絶えず気を配って下さったためだと思った。四十七日間の船中生活に終止符を打ってカイヤオ港に上陸する事になった。

 波止場には彼を始め、彼の両親、弟妹が迎えてくれた。特に元気者の彼の弟(この父の弟は戦前沖縄へ帰りその後、十九歳で男子師範から戦争に駆り出されて終戦間際の六月南部で戦死。朝子記)が上手な日本語で、色々と世話をしてくれた。彼も三年ぶりの再会であったが余り変わりはなかった。税関もスムーズに終えて、上陸許可がおりた。

 上陸して町を歩くと、世界各国の人種が見られた。肌のきれいなスペイン人。がっしりして健康的なドイツ人。働き者のイタリア人。食べることに忠実で、財力のある中国人。日曜日もなく働き続けている日本人。ワンマンなアメリカ人等。いろいろな人々が集まっていた。

 日本人の八割は、雑貨商を経営している。朝は四時から市場に買出しに行って、晩は十一時ごろまで働いていた。沖縄で考えていた濡れ手に栗式のような金儲けではなかった。

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私は今、私の家族が入港出港したカイヤオ港に立っている。
九十一年前に初めて私のオジーが入港したカイヤオ港。
きっとオジーはこのペルーで成功し錦を飾って沖縄に帰ろうと強く誓ったに違いない。
でもペルーでは成功できずにカイヤオ港から日本に向けて出た時のオジーはどんな気持ちだったんだろうか?と私の頭の中はオジー、オバーそして叔父、叔母、両親のことでいっぱいになった。
posted by くめじまたいむ通信員 at 02:04| Comment(2) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月06日

第6話 ナンクルナイサは通用しない(海人ちーちゃんのアメリカンドリーム)

第6話 アメリカ上陸

何とか入国審査もパスした。税関を通って到着ロビーに出ると
叔母とアンクルが迎えてくれた。
外に出てみた。。。 涼しい!しかも空気がカラッと乾燥してる。
ふだんから油症のとーちゃんだが顔がベトベトしてない。
昨日までのあの沖縄の気候とはまったく対象的だ。

ep6_hollywood-1.jpg


さて、これから叔母の家までフリーウェイ(高速道路)で3時間。
長すぎる!
(実はアメリカではフリーウェイで3時間程度の運転は普通である。)
天までとどきそうなヤシの木、雲一つない青い空。(ここで "日本晴れの
カリフォルニア" なんてつまらないシャレを言ってはならない)
そして丘の上にはHOLLYWOODの文字が。。。
まるで映画で見たようなシーン。
だんだん気分もアメリカモードになってきた。
よーし、頑張るぞぉー!






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フリーウェイ(高速道路)
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アメリカは車社会。ちょっと隣の町へ行くにもフリーウェイは
欠かせない。5-6車線もある中を時速120KMの猛スピードで突っ走る。
慣れてない人にはかなり怖い。アホなアメリカーには下り坂だろうが
雨の日だろうがお構いなしに猛スピードで走るヤツがいる。許せん!
アメリカのフリーウェイはなんと無料。つまりどこまで行ってもタダ!
たとえば西海岸のロスから東海岸のニューヨークまで一週間走り続けても
タダ!


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posted by くめじまたいむ通信員 at 14:59| Comment(8) | 海人とーちゃんのアメリカンドリーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月05日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その4(フロリダ通信員)

2006年1月28日

今日は朝食後はすぐに沖縄会館へと出発。
会館内は人と車でごった返していた。
多くの沖縄県人がリマ市内だけではなくあっちこっちの地方から集まっていた。
会場内ではすでに色んな行事が始められていた。


沖縄からペルーへ移民して来てペルーで亡くなった方たちの法事が会館内で行われていた。
私と秋子さんも列に並んで順番を待ってお焼香をした。
「皆様本当にご苦労様でした。」と合掌した。
この日は約半日県人会会館で過ごす。



サッカーフイードル近辺では売店が各郷友会(沖縄の市町村)主催でオープンされているということで行ってみたが翌日29日が本番らしく準備中のお店が多かった。
サーターアンダーギーとか売っていないかと期待したが残念。

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写真 ペルー沖縄会館内で配られたランチ(久しぶりのウチナー料理のお弁当)美味しかった!そして飲み物はペルーでは有名な(インカコーラ)昔、60年代頃沖縄で売っていた(ベストソーダ)の味がした(ミスターコーラ)の味だと言う人も居た。

 

私とフロリダから来た宮城島出身の秋子さん(62歳)は今回のペルーの旅はある一つの使命があった。それは彼女の従兄弟たちとその家族を探す事だ。
秋子さんのお母さん(1998年94歳で他界)の妹が戦前写真結婚でペルーに渡っていた。
秋子さんのお母さんが元気だった頃は妹と文通をしていたがお母さんが亡くなってからはそれが途絶えてしまったのだ。
住所も分からない。

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写真 ペルー沖縄会館内でペルー婦人会の会員の方たちに従兄弟家族の消息を尋ねている秋子さん


秋子さんは会館の100年祭会場内では何人もの人を掴まえて(本当に手を掴まえて)従兄弟の名前を言って知らないかと聞き回っていた。秋子さんはウチナーグチが達者なのでお年寄りにはウチナーグチで若い世代には日本語で聞いていた。
親切なおばさんが(ペルー2世の方)親が宮城島という2世の50代のペルー婦人会の方を連れてきた。
この女性は日本語は相当にうまく話していた。
なんとこの女性が秋子さんの従兄弟そして家族をよく知っているというのではないか!
秋子さんはこの女性にホテルの電話番号とルームナーンバーを渡した。

この日の夜は各市町村歓迎会。残念ながら久米島郷友会らしきものはなかった。
そして久米島出身の方にも会わなかった。
久米島出身の方はペルーには居ないのかな〜と一瞬思ったりした。
私の親戚(オジーの弟も戦前ペルーに渡ったがオジーたちと一緒に沖縄に帰らないでペルーに残った)はペルーからアルゼンチンに移ったらしい。
ペルーで久米島の方たちに会えるのではないかと期待していたが誰も会えずに本当に残念だった。



さて、場面はホテル。
秋子さんの従兄弟の娘さんからの電話が来た。
秋子さんは相当に興奮していた。
一度も会ったことのない従兄弟たちにもうすぐ会えるのだから。
従兄弟のMasako(漢字不明)さんの娘さんが夜の7時にホテルに迎えに来るそうだ。

私と秋子さんは少しおしゃれをしてロビーで待っていたら小柄なペルー人顔の彫りの深いかわいい若い方が現れた。
お互いにハッグをして自己紹介をした。
秋子さんは興奮して彼女に色々と家族のことを聞いていた。
運がいいことに従兄弟のMasakoさんの娘さんのロザリアさんは英語がぺらぺら。
彼女は博士号を持っている秀才。
そう言われててみれば彼女はディキヤー顔しているな〜。

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写真 ホテルに迎えに来てくれたロザリアさん


ロザリアさんの自家用車で彼女の妹のアパートへ。
リマ市内は皆運転が乱暴とのことで(車がどこからでも飛び出してくる)特に数少ない女性ドライバーは男性ドライバーが意地悪をするとのこと。
((注)これは私が言っているのではありません。ロザリアさんが言っているのです。)


ロザリアさんの妹さんのアパートでは家族が待機していて秋子さんと私を大歓迎してくれた。
秋子さんはあんまりにも感激して涙ポロポロ。
つい私まで眼が潤んできた。涙には弱いんだよね〜。
でもなかなかの感動、感激の一場面でした。
きっと秋子さんのお母さんそしてお母さんの妹さんは天国で秋子さんに感謝していることでしよう。

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写真 秋子さんと従兄弟さんたちそしてその家族

Masakoさんの弟さんのYukinoriさんも仕事が終わり秋子さんに会いに来てくれた。
これでペルー在住の秋子さんの従兄弟さんたち、家族全員に会ったことになる。
Masakoさんが大事に保管していた昔の懐かしい写真を見ながらユンタクは続いた。
時計を見たらもう午前12時になろうとしていた。
別れ惜しみながらロザリアさんの車でホテルに帰った。


フロリダに帰ってきてもロザリアさんとはメールや手紙で交際は続いている。ロザリアさんは仕事で世界各国に出張に行くとの事。
次回は必ず沖縄を訪ねてみたいと言っていた。

ペルー沖縄移民100年際ツアー その5へ続く・・・・
posted by くめじまたいむ通信員 at 07:01| Comment(2) | TrackBack(1) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月03日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その3(フロリダ通信員)

2006年1月27日

今日も半日はリマ市内観光。
そしてランチの後ペルー沖縄県人会会館を訪ねる予定だ。
リマ市からバスで30分か40分位はかかったかな?。

方角も北に向かっているのか南に向かっているのかさっぱり分からない。
県人会館がある町の名前も知らない。
ガイドのジョージさんに地名を聞けばよかったな〜と後で後悔した。


ペルー沖縄県人会会館はすばらしかった。
(建物が美的にすばらしいのではなく)県人会会館はいつ頃建てられたか関係者に聞くのを忘れたが、移民100年でよくこれだけの建物と敷地を購入したものだと感心した。

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写真 この広い敷地 これもペルー県人会所有です


敷地はサッカーの試合ができるぐらいの広さだった。
ただただ感心するばかり。
私も県人会活動をしているが県人会の会館を建てるなんて想像も出来ないしまたそれは夢見たいな話。

ペルー沖縄県人の皆さんには本当に脱帽です。
ご苦労様でした。そしてご苦労様です。

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写真  ペルー沖縄会館前にて ツアーの方たちと


この日は翌日から始まる移民100年祭の準備で県人会会員は忙しそうだった。
会館にはちょっとした食堂があった。
なんとウチナーそばを売っているのではないか。
あ〜食べたいな〜。
でも今さっきランチを食べたばっかり。
ランチはペルーの高級レストランだったがまあそれはそれなりに美味しかったがしかし、ウチナーそばが食べたかったよ〜。

食堂内ではたぶん3世か4世と思われる中学生たちがポスターの作成をしていた。
感心感心。たぶん親に言われて協力しているはず。
親に逆らわないで手伝っているのは素直でいいね〜。

会館内で働いている(ボランテイア)子供たちは皆ニコニコして日本語、英語、もちろん母国語のスペイン語と3カ国語を自由自在にぺらぺらと使っている。
ペルー沖縄県民は教育に熱心だということがこの子供たちを見てすぐに理解できた。
子供たちは皆頭が良さそう。とまた内心一人で思った。



サッカーフイードルではお隣さんの南米各国から来た皆さんがゲートボールの試合をしていた。
秋子さんといっしょに大会を覗いてみた。
どうやら試合は終わったらしく皆で記念写真を撮りあっていた。

なぜか今こうしてペルーに居るということが不思議な感じがした。
だってここに居るのは皆沖縄のどこにでも居るような(失礼!)ウチナージラをしたおじさん、おばさんたち(私もその一人ですが)そのおじさん、おばさんたちがスペイン語を話したり、ポルトガル語を話したりしているのだから不思議。

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写真 ペルー移民100年祭歓迎会場内
   沖縄そしてペルーの民族衣装で着飾った沖縄系のお嬢様たち
  (3世、4世 )



この夜はペルー沖縄県人会主催の歓迎会。
ホテルに帰って着替えてもいいしまたそのままのかっこうでもいい。
ただし半ズボンとぞうりはだめだとガイドさんに言われた。

今回の旅は歓迎会とかがいっぱい予定表に入っていたのでドレスとか靴とかいろいろ持参したが結局は面倒になって着替えずにパーテイーに出席。
夜の8時頃パーテイー会場のレストラン着。

アトランタ県人会の会長Kさんはホテルで着替えたらしくステキなドレスを着て来た。それを見て私も着替えればよかったかな〜と少しだけ後悔した。
それからえいえんと待たされてパーテイーが始まったのがなんと夜の10時30分!私のベッドタイムはとうに過ぎているのではないか。

peru_3_4.jpg

写真 ペルー民族ダンスを踊っている沖縄県人系の若いカップル
   ペルー沖縄移民100年祭パーテイー会場内にて




やっと食事が来て、御偉い方々の挨拶とかがあったりペルー現地の色鮮やかな衣装を着た若いかわいい女の子とハンサムな男の子の現地の踊りがあったりと楽しいパーテイーは夜遅くまで続いた。

ペルー沖縄移民100年際ツアー その4へ続く・・・・
posted by くめじまたいむ通信員 at 11:34| Comment(4) | TrackBack(0) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

訂正とお詫び

”ペルー沖縄移民100年際ツアー その2(フロリダ通信員)の記事”で編集部のてちがいで1月25日の分がぬけておりました。
さっそく追加しました。
朝子様大変申し訳ありませんでした。
読者の皆様も申し訳ありませんでした。

とても楽しみにUP作業をおこなっています。
誰よりもはやく原稿をみることのできる編集部は役得です・・・しみじみ。

編集部員S
posted by くめじまたいむ通信員 at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月02日

ペルー沖縄移民100年際ツアー その2(フロリダ通信員)


2006年1月25日

 二ヶ月間の準備期間を終えいよいよ出発の日。私の夫が私と秋子さんをエアーポートまでドラップオフ。「じゃぁねーバイバイ(日本語です)」と夫には軽く別れのチュッ!「二人とも気をつけて。そしてエンジョイして来なさい」と夫。やっぱりアメリカーの夫を持って良かったさ〜。いつでもどこへ行くにも文句なしだもんね〜。(これは自慢?)

今回の旅は久々の興奮(?)なんせペルー南米の旅は初めて。いくらインターネット上で調べてもやはり行ってみない事にはぜんぜん想像がつかない。



アトランタでロスアンゼルス、ハワイからのツアーメンバーと待ち合わせ。私たちはフロリダからだからけっこう早く着いて3時間ぐらいユンタクをして皆を待っていた。まずハワイからの皆が到着。お互いに自己紹介をし合ってロスアンゼルスからのメンバーを待つ。しばらくしてロスアンゼルスからのメンバーもそろいさあいよいよペルーへの出発。アトランタからはなんと8時間ぐらいの近さ。それに時差はたったの1時間。まぁ〜ペルーてけっこう近いんじゃない。と一人で感心。なぜかペルー行きの飛行機はほとんど夜中にペルーに到着とのことでやはり私たちも夜中にペルー到着。案外楽な飛行機の旅。日本行きと比べられない楽さ。お手洗いも機中では一度も行かなかった。ラッキー!(飛行機のトイレはすごく苦手。なるべく入らないようにしている)

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写真 バスに乗っていた子供たち 無邪気でかわいいですね


ペルーの空港ではハプニングがあり結局は朝の3時にホテル着。ハワイから参加した老夫婦が空港内で行方不明になり現地の旅行会社のお兄さんが真っ青な顔をして探したが見つからず(私たちはエアーポート内で待っていた)ホテルに電話をしてもそこにも居ない。パニック状態の時、老夫婦が今タクシーから来たとホテルからの連絡が入って一件落着。翌日わかった事だが、タクシーの運転手が無理やり彼らの荷物をタクシーに入れ、彼らは荷物を取り返しきれなくてそのままそのタクシーに乗ったとの事。ホテルまで約20分ぐらいの距離を運転手は市内をグルグルあっちこっち回ってからホテルに降ろしたとの事。もちろんタクシー代はたくさん払わされていました。でも無事だったから良かったさあ〜。お金はいいさ〜しょうがない。(と皆の意見でした)



2006年1月26日


昨夜は遅かったので今朝はゆっくりと起きてホテル内での朝食。
バッフェ(バイキング)式の朝食。めずらしい食べ物、果物類がある。
でも用心して(お腹の)なるべく珍しいのは食べないようにした。

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写真 ポテト類のお料理が美味しかった!

お寿司もありました。でもいくらなんでも朝からお寿司は食べられない。
普通のアメリカ式(卵とベーコンとトースト、果物)の朝食を軽めに食べる。
ランチはペルー風のレストランとのことでそれに期待して朝食はあんまり食べないようにした。

でも秋子さんは相変わらずの食欲で彼女のお皿は大盛り。
しかし、彼女はいつでもでこでもよく食う。
じゃなくて良くお召し上がります。
それが彼女の健康の秘訣だはずね〜。


さて、話は違うがインターネットの情報でアメリカ札はどこでも使用できるとの事を知っていたのでペルーのお金はあんまり両替しないことにした。
ホテルでもボーイさんたちにも1ドルのチップ(一人当たり)で十分のような気がした。
1ドル紙幣を50ドル持っていたのがよかった。それがすごく役立った。

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写真 リマ市内


ペルーの1月の気候は最高に良かった。
アメリカは冬だが、ペルーは夏。
湿気がぜんぜんなくてカラッとした天気。
あんまり暑さは感じなかった。夕方はちょっと肌寒いぐらい。

リマ市内は古い建物の町並みと新しいビルデングがミックスされた町という感じ。市内は車も多いし商店街も多い。
どこでも都会は同じでリマ市内は那覇の町とさほど変わらない感じ。


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写真 リマ市内の住宅街


今日は朝からリマ市内観光。ホテルはSホテルで最高級ホテル。
ツアーの値段はちょっと高めな気がしたがホテルを見てなるほどと納得。

ペルー市内は遺跡の宝庫。なにげなく遺跡がすぐそこにあるから驚きだ。
また古い教会も美しい。
http://www.peru-japan.org/Slima.htmlこのサイトで詳しく説明されているからここでは説明は省くことにする。

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写真  リマ市近くの海岸(太平洋) サーフインをしていました

リマ市内には博物館も多い。
これじゃあ9日間のツアーでは足りないのではと思ったほど。
これも見たい、あれも見たい。
ここへも行きたい、あっちへも行きたい。
でもグループツアーだから現地ガイドのお姉さん、お兄さんに任せることが一番。

リマ市内での数多い博物館で時間をかけて見たのが「天野博物館」。
それこそ何千点?いや何万点かも知れない。
詳しいことはこのサイトを参考にしてください。http://www.geocities.jp/peruamano/jimukyoku.htm

陶器や織物が好きな人には絶対にお勧め博物館です。
この博物館のお土産シッヨップで天野氏著作の「我が囚われの記」を10ドル(アメリカドル)で購入。
私は現金は小さな袋に入れて首から下げてブラウスの中に隠していたので売店のお姉さんが「10ドルです(日本語で)」とお金を催促されてもお金が取り出されなくて(人前で袋を開けるわけにもいかなくて)もじもじしてどんなにしてお金を取り出そうかと思案中。

それを側で見ていたハワイ2世のリチャードさんが私がお金がないと思ったのか「ボクが買ってあげようか?(英語)」と言っている。
私は恥ずかしくなり彼に「実はお金が取り出せないのだ(英語)」とヤナワレーしながら言った。

天野氏の本は興味深く読んだ。
私の家族が戦前ペルーで囚われた同じ経験を(天野氏はパナマで囚われた)しているので一字も見逃すまいと読んだ。
私の母もペルーでの経験を手記として多少は残しているが、天野氏のこの本のおかげで色々と詳しいことが分かった。この本に出合えて本当に良かった。

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写真  恋人たちの公園(ミラフローレス地区内)
    かすかに見える海は太平洋

この日は日秘文化会館も訪ねた。
日本からペルーの移民の歴史が展示されていた。
ここもまた一生懸命に説明を聞いた。私のオジーが戦前契約移民でペルーに来ていたからだ。
オジーは1年契約だったがあんまり成功せず結局は約30年間ペルーで苦労した。
戦争勃発で結局は無一文で久米島に帰っている。

今、現在このペルーの地で多くの沖縄県人が成功しているのをオジーが見たらきっと感激していたかも知れないと内心思った。

ペルー沖縄移民100年際ツアー その3へ続く・・・・
posted by くめじまたいむ通信員 at 00:29| Comment(2) | TrackBack(0) | フロリダ(米)モートン朝子通信員  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月01日

物産展「美ら島」

はい!
3月30日に取材してきました。

お店は、練馬区でも名高い石神井公園です。
→ http://www.mapion.co.jp/c/here?S=all&F=mapi3322072060330174937
こじんまりとしたお店ですが、南国をイメージできる雰囲気です。

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沖縄の曲が流れ、モニターには沖縄の風景が映し出されています。
ママは、気品のあるお方でした。

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島のお話をしながら一時を過ごすことが出来ました。
意義ある一日でした。


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*** 美ら島 ***

西武池袋線石神井公園下車、北口、西友の近く
TEL 03−3997−7833
営業時間 AM10時からPM8時
定休日 火曜日
オーナーはご夫婦とも久米島出身の方
posted by くめじまたいむ通信員 at 23:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 東京(日本)中村通信員 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする